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年末のある日

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  昨年末のある日、テレビをつけたら恒例のクラシック音楽ハイライトをやっていた。出演者たちが年初に亡くなった指揮者、クラウディオ・アバド氏の功績を讃えている。

  続いてアバド氏が率いるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の日本公演の録画が流された。

 1994年10月14日。サントリーホール。

 冒頭から一気に記憶の海に引き込まれた。私にとっても忘れることのありえない特別なコンサートだったからだ。

  ・・・その夕べ、私は幸運にもホール最上段の一隅に席を確保できていた。 

当夜のプログラム第1曲はムソルグスキーの交響詩「はげ山の一夜(原典版)」。

アバド氏のタクトが振り下ろされた直後から私の魂は実(げ)に恐ろしげなはげ山のてっぺんにワープした。いきなりの迫力がそうさせたのだ。顔の表情も豊かにアバドさんが指揮をする。大編成のオーケストラが奏でる音は整然と爆発したかと思えば引き潮の如く遠く引いてゆく。凪から始まり心地よく揺さぶられたかと思えば途端に魑魅魍魎たちが跋扈する地獄の底(いや、山のてっぺんでした)へ打ち据えられる。そんな魔術をかけられたような感覚。鼓膜のみならず全身の肌で感じる“音楽風(かぜ)”。幻覚のようでいて決してそうではない。休む間のない目(いや、耳)の覚めるような美音で紡ぎだされた驚くべきレベルの名演だった。

 次いで、ストラビンスキーのバレエ組曲「火の鳥(1919年版)」で七色に弾ける音の饗宴を体験。

  最後はチャイコフスキーの「交響曲第5番」。このポピュラーな名曲は、レコード・CDや実演で私も数えきれないほど何度も鑑賞している。

  が、これも凄かった。

  正確な音程と、緩急・強弱、緊張と弛緩のメリハリ。指揮者、演奏者諸氏が確かな実力を備えた名人ぞろい。その上、選び抜かれた楽器の音質。優秀なホール。耳のみならず肌でも繊細な空気の流れの変化を感じ取る。真面目な優等生たちが持てる力のすべてを出して一所懸命に演奏してくれている。そう見え、聴こえた。

  聴き慣れている筈の曲なのに今までに経験のない新鮮な感覚。感動の限界を超えてしまいそうな私は「今、自分の人生全体の中で最高の感動を得ている」と確信した。

  さて第4楽章大詰めのコーダに至ったときだった。第1ヴァイオリン最前列のコーリャ・ブラッハーさんが隣のコンサートマスター、ダニエル・シュタブラーヴァさんに微笑みかけたのである。次いで後ろのヴァイオリン奏者たちも互いに隣の奏者とチラッと視線を合わせ笑みを交わしている。前列から後列への微笑みの連鎖である。当夜の白熱の演奏もいよいよ終盤に差し掛かっていたから一仕事終える直前の達成感と互いの努力に対する慰労の表現と見えた。

 後日、この微笑みの起点はアバドさんであったことを知った。ヴァイオリン奏者たちに大きな笑顔を向けたのだそうだ。指揮者としても大満足の出来栄えだったのに違いない。

  ここで思い出から覚める。

 世界中のファンに愛されて惜しくも故人となられたアバドさん。楽譜を細かく研究し作曲者の意図を解釈してそれをできるだけ忠実に実現する。これが基本。が、時には魔術を駆使して元の曲を上回る感動を与えてくれた。もし作曲者が聴衆にまじって聞いたら、自分の曲ってこんなに良かったのか、と驚いたのではないか。私はそう思っていた。今頃は天国で引き続き至上の音楽を提供されているに違いない。

  この貴重なコンサートのおかげで改めて認識できたのは「やはり本物は違う」ということだ。本物を知れ、体験せよ、という教訓だ。本物を知ることが人生を豊かにする。

  医学などの研究もそれなりの決意と覚悟さえあれば、その分野で本物の権威と目される大先生の元へ積極的に飛び込むべきである。若いうちに・・・。きっと的確な指導により自力で未来を切り開く能力を磨けるだろう。

  ところで、演奏は楽譜という記号に従ってなされる。私のような素人が単なる記号を見るだけで感動するのは困難だが、優れた演奏の前提として優れた音楽を的確に表現した楽譜は絶対必要である。

  こんな当たり前のことを考えていたら別の当り前のことに気が付いた。

遺伝子情報、建物の設計図、憲法とそれ以下の法規範・・・。大雑把にはなるが、楽譜と類似した関係がいくつもある。自然界の絶妙な摂理に基づくもの、人間界で円滑な人間的営みを実現するために人間が自己都合で作ったもの、などいろいろだ。ここで、後者は運用する人間の恣意によりその発現の結果は良くも悪くもなる。この点に注意。

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  前述のように、演奏が聴衆を魅了する前提として作曲者が優れた音楽を楽譜に表現していなければならない。数々の優れた音楽を生み出すためには常人には到底まねのできない天賦の才能とこれを楽譜に記す努力とが必要だ。

  天才作曲家だって一定の苦労は免れなかった筈。また彼らの生きたクラシックの時代は現代と比較すれば不便、不隠の極みだった。だから彼らが余儀なくされたであろう苦労を改めて考えたくなった。そこでテレビを見終えてから、かつて読んだことのある一人の作曲家に関する伝記を久しぶりに本棚から取り出す。

  モスコ・カーナ著「プッチーニ」(加納 泰 訳、音楽之友社)2分冊とジュリアン・バッデン著「プッチーニ - 生涯と作品」(大平光雄 訳、春秋社)である。いずれも生涯と作品について詳しく記述している。

  ジャコモ・プッチーニは19世紀のイタリアオペラ界で活躍した作曲家で、全部で 12のオペラを作曲した。但し最後の“白鳥の歌”である「トゥーランドット」は未完で遺された。

  6番目の作品「蝶々夫人」は和声の豊かさで夙に名高く人気も根強い。ただ描かれている“日本”は私たち本物の日本人から見ると間違いだらけ。場面によっては噴飯ものとも言えるが、まだ詳しい情報を入手しえなかった彼が想像の翼を羽ばたかせて“日本”と“日本人”を懸命に描いたのだ。甘美な旋律に彩られたアリアや二重唱の楽想は彼独特の霊感の所産だが、脚本はじめ劇的要素の卓抜さはジュゼッペ・ジャコーザとルイージ・イㇽリカという経験豊かな実力派脚本家たちの手柄である。

  この「蝶々夫人」、万全の準備の元での初演は意外にも劇場が大荒れとなり失敗した。当時のイタリアでは馴染みの薄かった日本的旋律や扮装が聴衆を戸惑わせ、イタリアオペラ界でのプッチーニの成功を嫉む勢力も批判を煽ったそうである。

  この失敗でプッチーニは実につらい思いをしたが「自分の最高作にしてみせる」という強い意志を持ち歯を食いしばって修正した。そして初演から3か月後に改めてのリベンジ公演に漕ぎつけたのである。

  これは一転して大成功だった。この修正では、老練な脚本家ジャコーザの助言に従ってオペラ大詰めの場面にアリアを1曲挿入したことも重要だったとされる。わずか3か月で失意から立ち直り美しいアリアをさらっと追加して全体もバランスよく修正してしまう才能にも舌を巻くが、成功に導いた助言が的確だったことも確かであり決して看過してはいけない。

  教訓。

 たとえ本物を知らなくても才能があれば成功可能である。

 そして経験者の助言には成功の秘訣がある。素直に耳を傾けて拝聴しその後の参考とせよ。

  「年寄りの言うことには一理ある。頼れ!」。(但し、本物の実力派経験者を見つけなければダメですが・・・。)

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  3冊の本を棚に戻して、ふと隣にある「ポオ全集第2巻」(エドガー・アラン・ポオ著、東京創元社)に目が留まる。取り出してその天に積もった埃を吹き飛ばす。「赤死病の仮面」(松村達雄 訳)という小説を読み返してみたくなったのである。

  この短編はかつて中学校の図書室でも読んだことのあるスリラー的なおとぎ話。

 「赤死病」は架空の感染症でひとたび発症すれば体中から血が噴き出してわずか30分で絶命に至るという。これが某国全土に蔓延して人々を恐怖に陥れていた。

  この国の国王は、家来の大半がこの病で死んだあと残った家来や友人たちを連れて城内の奥に立てこもり疫病が入り込まないように通路を封鎖。厳重に隔離した。城外の市井では病が猛威を振るっていたが国王は仲間たちとともに饗宴にふけり仮面舞踏会を開くことを思い立った。舞踏会当日、赤い仮面を付けた謎の参加者がいる。これが実は赤死病の化身だったことから国王らは発症して死んでしまう。

  この小説では、何の兆候もなく忍び寄る致死的な疫病に人々が恐れおののく。

  架空の世界の話であるし医療がきわめて頼りなかった大昔という設定でもある。

 しかし今もエボラ出血熱はじめ重大な結果に至る疾病は相変わらず人類を脅かしている。身近な所でもインフルエンザの猛威は侮れない。また感染症以外の疾病も本人の気づかぬうちに全身各部・各器官を蝕んでゆく。高血圧症などが「音もなく忍び寄る暗殺者」と言われる所以だ。

  病魔との戦いに終わりはない。くれぐれも油断することなく常に注意を怠らないこと。いつの世も医療関係者は使命を果たせるよう努力を絶やさないこと。

  こんなメッセージが読み取れるのかなぁ。・・・いや、考えすぎか。

  さて、気を引き締めなおしたところで暫しの取りとめのない思考はおしまい。年末の雑用処理に戻ることにしよう。

( 小岩井内科クリニック      小岩井 俊彦 )

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